引き寄せない、叶えない、すべては既に在る

奇跡も魔法も、特別なことなんて何も必要ありません。あなたは既にすべてとともに在るのだから

すべては今初めて目にしている

前々回 と 前回 の2回にわたって、認識している世界が「今この瞬間」現れたものであって、それが目の前に現れるまでの経緯に関する記憶は本当は実体がないということに触れました。

 

過去が存在しないということは、今この瞬間目にしている世界のすべては、たった今初めて目にしているということになります。

 

「そんなことないよ。今日会社に出勤したときも覚えているとおりの経路で進んだし、会社の人たちの顔や帰ってきたときに出迎えてくれた家族の顔だってちゃんと覚えているよ」

 

ええ、そうでしょうね^^

 

でも、私たちが今この瞬間しかない世界を体験しているのなら、その「覚えている経路」「覚えている人たちの顔」ってなんなのでしょう?

 

実はこういうことではないでしょうか?

 

あなたが家を出て会社に向けて足を踏み出す。

本当はどこにどうやって行くかも分かっていない、でもとにかく「行く」という意図の下で実際にそうしようとした瞬間、あなたは次にどちらの方向に進むのか、どこまで歩いてバスに乗るのか、どこで降りてそこからどう歩くのかを瞬時に知る、あまりにもタイミングよくそれが起きているので、それを以前から知っていたかのように錯覚したまま、「覚えているとおりの経路」で目的地に到着する。

 

そして会社の同僚、上司、部下、取引先の人たちと顔を合わせる。

その人たちはその瞬間に初めて会う人たちで、どこの誰なのかも本当は知らない、でも瞬時に「この人は上司の〇〇部長、この人は同期入社の△△君」という情報(記憶)を得る、家に帰ればそのとき初めて会った家族についてのあらゆる情報を瞬時に思い出す、まるで知らなかったことなどなかったかのように。

 

こうして私たちは瞬間瞬間まっさらな世界ですべてを初めて見ているにも関わらず、日常のほとんどを「憶えている」「見たことがある」「知っている」というていで体験することになります。

もちろんそのほうが便利なことが多いでしょう。

毎瞬毎瞬赤ちゃんのようにすべてを初めて見るという知覚をリセットしていたら、新鮮かもしれませんが不便で仕方ないでしょうしね。

 

でももしこの「憶えている」「知っている」という体験を意識的に緩めることができたら、私たちはエゴの強制する人生のストーリーから一瞬にして自由になるでしょう。

 

たとえば、会社で上司の顔を見たとき、

「この〇〇部長はすごく嫌味なやつで昨日も些細なことで揚げ足を取られて2時間もネチネチと説教された」という記憶が瞬時に付け加えられたとします。

そのままいやーな気分でその過去の延長線上の関係性を続けることもできますが、

「ん?この人がどうやら上司みたいだな。さて、どんな人だろう?一緒に仕事して楽しい人だといいな」と、今この瞬間初めて見た人であることを意識することもできます。

その結果、やっぱりその日も嫌味を言われたりするかもしれませんが、

「ほらみろ!前からそういう人だったよ!そう簡単にかわりゃしないよ!」と思うか、

「今日はそうだったけど、昨日までの記憶にあるこの人とは別の話だ。そして次に会うときはやっぱりまた違う初めて見る人だ」と思うかでまたその上司に関する体験の分岐は変わってきます。

 

「ずっとそうだった」→「これからも変わらない」をそのとき断固として選ばないのであれば、瞬時に世界はその属性から分岐します。

 

また、会社に出勤したり、あるいは家に帰るときも、あなたの知覚では見知った道のりを往復しているだけかも知れませんが、

「さて、私はたった今初めて見る世界の中で移動しているぞ。道を覚えているというのは錯覚で、一瞬ごとに必要な情報が記憶という形で私の中に送り込まれてきているのだ。これってすごいことだよね!」

と新鮮な驚きを感じつつ移動することもできます。

そうすることで、あなたは「過去の記憶に縛られない世界」に分岐して行きます。

いやまあ、本来元々そうなのですが、それを意識することで「記憶の呪縛」から自由になれるのです。

 

その記憶とは、今この瞬間をどう設定しているかで、無限に分岐した膨大な世界の情報の中から選ばれて採用されたものだと気づいたら、もうその記憶に対するリアクションとして整合性の在るストーリーを維持する必要はなくなってしまうでしょう。

 

記憶がすっかり私たちの知覚から消え去ってしまうことはなくても、「すべては今初めて目にしている」「すべての属性は今この瞬間に決定している」と気づくことで、世界は瞬時にそれに反応するでしょう。

 

ココロノタビビト(@cokoronotabibit) | Twitter