引き寄せない、叶えない、すべては既に在る

奇跡も魔法も、特別なことなんて何も必要ありません。あなたは既にすべてとともに在るのだから

「現実のあの人」と「イメージのあの人」

 

「イメージの中であの人に愛されていたら、現実のあの人も愛してくれるようになるんですか?」

 

「現実のあの人って?」

 

「現実に存在してるあの人ですよ!イメージの中にだけいる人じゃなくて」

 

「その人今どこにいるんですか?」

 

「さあ、家にいるのか出かけてるのかわかりませんが…」

 

「その『現実のあの人』は今そこにはいないんですよね?」

 

「いません」

 

「でもあなたは『現実に存在するあの人』を思い浮かべた」

 

「そうですよ。それが何か?」

 

「なぜ思い浮かべたんですか?」

 

「今目の前にいないからですよ」

 

「『現実に存在するあの人』なのに?」

 

「実際今ここにいないんだからそうするしかないじゃないですか!」

 

「じゃあ、『イメージの中のあの人』はどこにいるんですか?」

 

「どこにもいませんよ!想像しただけですから」

 

「でも『現実のあの人』も今は思い浮かべただけなんですよね?」

 

「ここにいませんからねそりゃ」

 

「『イメージの中のあの人』もここにいませんよね?」

 

「いるわけないじゃないですか!イメージなんだから」

 

「『現実に存在するあの人』として思い浮かべた。『イメージの中にいるだけの人』として想像した。違いはなんでしょうね?」

 

「現実に存在するかどうかでしょそりゃ」

 

「つまり一方は現実に存在するとして、もう一方は存在しないとしてるんですよね?」

 

「実際その通りじゃないですか!」

 

「それどうやって決めたんですか?」

 

「え?」

 

「どちらも今目の前にいない、思い浮かべたり想像しただけの『あの人』を、どういう基準で現実に存在するかしないか区別したんですか?」

 

「そりゃ現実のあの人は実際に会ったり話したりできるからですよ」

 

「今ここにいないのに?」

 

「今はいなくてもちゃんと実際に会ったり話したりした記憶はあります。一緒に撮った写真だってあるしLINEのスクショだって残ってます。今はブロックされてるけど…」

 

「基準は記憶と物的証拠ですか?」

 

「それ以外に何があるんですか?」

 

 「その記憶と物的証拠はどうやって『現実のあの人』に関連付けられているんですか?誰がそれを決めたんですか?」

 

「そりゃ私ですよ」

 

「ですよね。そりゃそうだ。あなた以外に誰もできませんよね」

 

「あーはいはい、『全部自分で決めている』ってお決まりのやつですよね?」

 

「今自分でそう言ったじゃないですか。『私が決めた』って」

 

「記憶がそうなんだから仕方ないじゃないですか!」

 

「その記憶はどこにあるんですか?」

 

「どこにもないですよ。記憶なんだから私の頭の中ですよ」

 

「つまり頭の中にしかない記憶を根拠に、思い浮かべた『現実のあの人』と『イメージのあの人』とを区別したと」

 

「でも物的証拠はどうなんですか?写真やスクショはまぎれもなく『あの人』が実在してる証じゃないですか!」

 

「でもそれと『あの人』を関連付けてるのはあなたなんでしょ?自分でそう言いましたよね?」

 

「そりゃそうですが…」

 

「頭の中にしかない記憶、そして物的証拠とのつながりも自分で関連付けたに過ぎない『現実のあの人』と、『イメージのあの人』、違いはどこにありますか?」

 

私がどちらを現実と決めたかどうか…ですか?」

 

「私に確認しなくても、ここまでで何度もご自分で言ってますよ。『自分で決めた』って」

 

「それは認めますが、最初の私の問いの答えは結局どうなんですか?」

 

 「『イメージの中であの人に愛されていたら、現実のあの人も愛してくれるようになるんですか?』という問いですね?」

 

「そうですよ」

 

どちらが『現実』か決めているのがあなた自身だったとしたら、その問いの答えを決めるのもあなた自身なのではないですか?」

 

「え?」

 

『現実のあの人』と『イメージのあの人』を区別しているのはあなたの頭の中にある記憶や関連付けだとしたら、それを入れ替えたらいいんじゃないですか?」

 

「そんなことできるんですか?」

 

「だって今までも頭の中だけでその区別をつけていたんでしょ?だったら今まで『イメージのあの人』だったほうをこれからは『現実』としてもいいんじゃないですか?」

 

「でも本当にそんなことでこの次に会う時にあの人が愛してくれるんでしょうか?LINEのブロックは解除されるんでしょうか?」

 

「お、今度は『この次に会う時のあの人』が出てきましたね」

 

「そりゃそうですよ。今実際には会っていないんですから」

 

「その『この次に会う時のあの人』はどこにいますか?LINEのブロックと愛してくれるかどうかを関連付けたのは誰ですか?」

 

「あっ…」

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます(・∀・) 

 

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現実世界における「創造」とは?

 

よく言われる


「自分が世界を創造している」

「出来事はただ起きている」

 

これらは一見矛盾しているように聞こえますよね。

 
「なんだよ!自分が創造しているのに結局何が起きるかは選べないのかよ!」

となりませんか?

 


さてどういうことでしょう?


その前に、


「創造している」とは何をでしょう?

「お気に入りの現実」「都合のいい現実」でしょうか?


実際はそれを望めば望むほど、それと正反対の現実を見ることが多いのではないでしょうか?

 

 

 

実は、本当の意味で創造など起きていないのだとしたらどうします?

私たちの源にあるエネルギー、阿頼耶識でもハイアーセルフでもソースエネルギーでも呼び方は何でもいいのですが、
(私は特にこだわりがないので)

 

それは最初からすべてがそこに在る、その充満したナニカ、新たに加えるものも減るものもないナニカが、私たちひとりひとりの見る世界に循環している。


そう、最初から在るものが循環しているだけ、その象徴を私たちは現実世界で見るのだとしたら?

 

それが私たちの世界に現れるとき、私たちの言葉に翻訳され、名前を与えられ、意味付けされ、今現在の私たちに相応しい状況として映し出されるのだとしたら、よく言われる「結果を決めるだけ」「選ぶだけ」とはどういうことなのでしょうか?

 

それらは「創造」と何の関係があるのでしょうか?

 


そもそも「創造」という言葉自体が、私たちの現実に欠けたものがあるというニュアンスを含んでいるのだとしたら?

 

いや、現実に欠けたものがあるのではなく、本当は私たちの視野でとらえきれていないだけなのだとしたら?

 


現実世界においては「そう見ればそう見える」が鉄則であり、あなたが後ろを見れば後ろの風景が、上を見上げれば空や天井が見える、これが瞬時に行われ、そのとき何が見えるかは私たちがそれぞれ持っている信念次第。


つまり、強いて私たちひとりひとりの現実世界においての「創造」とは、「見る」あるいは「認識する」こと同じということなのではないでしょうか?


何かを見て、言葉で認識することでそれは世界に形を成す

それはただそれだけです。


私たちの世界に循環して現れた象徴は、形を成すことで役割を終えて消える、ただそれだけのもの。

「創造」なんてそれだけのことです。

すべてが最初から在って、何も増えも減りもしない世界で「創造」という概念自体が幻なのです。

 


海の表面に浮かんだ波と同じ。

現れては消えて行くのです。

波は創造されるのではなく、海全体のエネルギーのうねりや、海面をなぞる風によっていっときその姿を見せるだけなのですから。

 

では、「決める」「選ぶ」とは?

 


創造とは何の関係もありません。

 

 

単なる取捨選択です。

前述のとおり、本当の意味で創造など起きていないのですから。

 


ただ起きた何かを、自分の意識体験の中に取り込むのかどうか、ただそれだけです。

私たちが何かに意識を向けると、それに関連したものが現実世界に次々と展開される

意識を向ければ向けるほど、より多く、より早く、より頻繁に…それが私たちにとって都合がいいかどうか、心地よいかどうかはまったく無関係です。


ではそれを拒絶すればいいかというと、それも意識を向け続けていることには変わりないので、やはりより多く…のループとなるでしょう。


そこから抜け出すカギは、「そこから抜け出そうとしない」です。


抜け出そうとするなら抜け出さなければならなくなり、「どうにかしなければならない」とするならどうにかしなければならなくなります

 

つまり気にしない。真に受けない。

「でも放っておいたらどんどん問題が大きくなって取り返しのつかないことになるのでは?」


表面的にはそう見えるかもしれません。
そしてあなたは実際になんらかの措置を取らざるを得なくなるかもしれません。

そのときはその行為が起きるまま淡々と流れに乗ることです。

目の前に起きた行為に没頭し、ただ起きたそれを終わらせてしまうことです。


そして、望ましいことに意識を向ける

今はここではないどこかにあるそれを引き寄せようとするのではなく、意識を向けた以上その象徴はこの世界に既に現れていると見ることです。

何を見ても、喜びというゴールから逆算されている、すべてがその象徴であると意味付けることです。

 

たとえあなたが「問題への対処」という形で行為していたとしても、それもその象徴として起きたものだと意味付けるとき、問題が問題でなかったことを知るでしょう。

 

そして、そのゴールに関連した象徴として意識を向けることで、次々とそれに関連したことを展開させる


それが、言葉による制限、認識による制限の下にある私たちの世界における「創造」となるのです。

 

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立ち位置、視点を移動する

お久しぶりです。

時間が幻想であるなら、いつかどこかに「望みを叶えた自分」がいて、今このブログを読んでいる自分はそれとは違う場所にいる…

 

それは私たちの持っている最大の錯覚のひとつでしょう。

(※厳密には錯覚はただ一つだけなのですが、その現れのひとつと言うことで)

 

今朝のツイートで触れたとおり、今それを望んでいる自分も、既にそれを体験し終わっている自分も同時にいる、ひとつの存在なのだとしたら、「望む」「得る、叶う」は同時にあるということです。

 

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上記のツイートでは、同じ場所にいてどちらの視点をとるかで自分がその立ち位置を選んでいるということを書いたのですが、

 

「どちらの視点?」

「既に持っている自分の視点を選ぶ?」

「難しいわー」

「つまりそれどうすりゃいいんだってばよ!」

 

となった方もおられると思います。

 

ここで、シンプルなコツを挙げてみたいと思います。

 

「視点を選ぶ」と聞くと

「はいはい、既にそうなった世界の自分になり切って眺めたらいいのね…

 なりきれんわ!そんなんはっきりイメージできんし実感わかんわ!」

となるかも知れませんね。

 

では、その自分に「なって」はいったん忘れておきましょう。

 

そのかわり、「何を見てるか」に意識を向けてみるのです。

そもそも、「既にそうなった世界、そうなった自分」をイメージできないのは、個人の視点で「まだそれを体験してない、見てない」からだと思います。

 

だから(あくまで個人の視点では)そんな実際にあるかどうかもわからない自分になんてなれないしその視点なんて持てない、となるのだと思いますが、

 

では、今現在そこにいる「望んでいる自分」「まだそうなっていない自分や世界」はどうでしょう?

それならば実感を伴って明確に見えるのではないでしょうか?

なんせ個人の身体感覚ではまさに今そうなのだから。

 

この今現在「望んでいる自分」「そうなっていない自分」を見るイメージをしてみるのはどうでしょう?

今の自分が未来の自分の立ち位置になり切ってその視点をイメージするのではなく、最初からはっきり実感できている「今の自分」を眺めてみるのです。

 

 

あなたの存在、あなたの動作、あなたを取り巻く人たち、出来事、世界…

それを意識してみる、外側からあなたを含むすべてを眺めてみる。

あなたが実感する「今現在の自分」をイメージしてみる。

 

それが「既にそうなっている自分」の視点です。

なぜそんなにはっきりと「現在の自分」をイメージできるのか?

それは「記憶を読み込んでいる」からです。

 

なぜ記憶なのかって?

あなたがそう決めたからです。

「今はそうである」と決めて、それが書き込まれている書物(記憶)を今読んでいるのです。

 

その記憶を読み込んでいるとき、あなたは既にそうなっている世界にいる自分の立ち位置で「ああ、そういえばこんなこともあったな」と思い出しているのです。

 

その立ち位置にいるとき、あなたが今読み込んでいる記憶とのギャップは勝手に埋められていくでしょう。

 

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「満たされる」とき

久しぶりの更新です。

 

今回は「満たされる」ということについて書いてみたいと思います。

皆さんは「満たされる」ときというのはどんなときだと思うでしょうか?

 

「満たされる」「充足」「満ち足りる」…そういった言葉のイメージから、なんとなく何かを「受け取った」ときに満たされた気分になることを連想されるかも知れませんね。

私たちの知覚としては確かにその通りの順番で感じられることが多いので、ある意味間違ってはいないでしょう。

 

ただ、私たちが観ているそれぞれの世界は、あくまで私たちの内面の投影であるという観点で観ると、「受け取る」をより意識的にしていくとそれは「発する」に他ならないことが分かると思います。

 

私たちが内面から「発する」ものを同時に世界が映し出し、それを「受け取る」ていで体験する。

つまりは、私たちは「発する」ときにこそ満たされるということではないでしょうか?

 

あなたが優しさを「発する」なら世界は優しさを、豊かさを「発する」なら世界は豊かさをそれぞれ映し出す風景となる。

あなたはそれを体験して満たされる。

 

それらの風景を因果のストーリーで意味付けしようとすればそれに縛られてしまうでしょう。

それなりに納得のいく経緯、幸運、努力の結果として満たされる資格を手に入れなければならない、つまり成果に応じて一方的に与えられるものを「受け取った」ときにはじめて満たされるという従属関係が成立することになります。

 

しかしあなただけが観ている世界で、いったい誰がそれをあなたに与えるのでしょう?

あなたが崇める高次元の存在も、同じ地球に生きている他人も、あなたの世界の風景にすぎないのであれば、あなたに何かを与える、受け取らせることができる他者など存在しないのです。

 

ですから、あなたが他者から「受け取る」という幻想を見破るとき、そこにはあなたが「発する」だけが残るのです。

 

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今この瞬間見ている何でもありの夢の中

誰かが何かを言ったことが心に引っかかって今に集中できないということはよくあると思います。

あるいは何かのタイムリミットが刻々と迫ってきているのにいっこうに現実が変化する兆しがなくて焦りだけが強くなる、そういう状況に陥っている人も多いかもしれません。

 

でもその言葉を発した誰かは今どこにいるのでしょう?
その言葉は今どこを漂っているのでしょう?

イムリミット?

誰かに「ここが期限だ」と宣告されたのでしょうか?

それとも自ら「この時期までに現実が変わらないとまずい!」と設定したのでしょうか?

それもまた記憶ではないでしょうか?


私たちが今この瞬間にしか存在できないのなら、記憶は実体のないただの幻にすぎなくて、その記憶に反応している思考も感情も同じく幻ということになります。

存在しないものに反応することはできないし、そもそも反応というからには後付け、つまりこれも存在しないはずの時間軸が必要になるのでそもそも反応など本来できないのです。

 

そして自分の現実というストーリー、自分の意思だと思っていた選択、それも単なる記憶への反応に過ぎないのだとしたら、私たちが「これが自分だ」「自分の意思だ」と思っているものはいったいなんなのでしょう?

そんなもの本当はないのだとしたら?

私たちは記憶に反応している思考や感情を自分自身だったり自分の主体的な選択だったりすると思い込んでいるけど、そもそも記憶自体が今この瞬間実在しないものであれば、それに対する反応だって実体のない幻ということになります。

つまり私たち自体も幻、本当は実在していない…?
だから今この瞬間には私たち自身すら存在していないまったくの虚無…?


…とここで巨大な矛盾がひとつ


その「実在していない自分に気づいている存在」はなに?
実在していないはずの思考や感情を観察して、あるいは入れ込みすぎてしばしば「これが自分だ!」と同化してしまっている存在はなに?

そう、それこそが私たちの本当の「意識」なのではないでしょうか?


その意識が存在するのは正真正銘の「今この瞬間」のみ
何も存在しないはずの虚無に存在し、何も起きていないと同時にすべてが起きているという矛盾を超越した空間にいる存在


それが私たちの正体なのであれば、どうあがいても私たちはすべてが既に在る永遠の今この瞬間から動くことはないのです。

すべては矛盾を超越した意識が鑑賞している幻、つまりなんでもありの夢の中です。
なんでもありであるがゆえに、私たちが自ら課した制約すらその夢の中では有効に設定されています。

ないはずの時間軸を知覚し、ないはずの過去に反応し、実在しない自分を演じて反応に過ぎない思考や感情を自発的な自分の意思だと思い込んでいる、そんな制約を設定した超絶的にリアルなロールプレイングゲームをプレイ中、それが私たちなのでしょう。

 

ではプレイ中のキャラに入れ込むのはほどほどにして、その制約など最初からなかったことに気づく、望みを叶えるために叶ってないという設定を瞬時に持ち込んでいることに気づくとどうなるでしょう?

 困難な状況に陥っている主人公の思考や感情と同一化して一緒に苦しんでいることに気づくとどうなるでしょう?

 

「いやいや、そうは言っても目の前の現実はリアルだとしか思えないよ!」と感じるかもしれませんが、目の前に見えている現実も私たちが設定している制約(観念)に対する反応、つまりは実在していない幻だと気づいていると、後には何が残っていくでしょうか?


私たちが仮想の現実世界で人間を演じている以上、五感を通した知覚は脳内にリアルな記憶をイメージさせるでしょうし、時間の流れも認識するでしょう。
でもそれでありながら、たとえ1秒でも時間の厚み(過去~現在~未来)を構成するもの(記憶とそれに対する反応としての思考や感情)は存在しない幻だと気づいている、その姿勢を取り続けていると、その認識を世界は投影せざるを得なくなるでしょう。

 

 

 

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