現実世界における「創造」とは?
よく言われる
「自分が世界を創造している」
「出来事はただ起きている」
これらは一見矛盾しているように聞こえますよね。
「なんだよ!自分が創造しているのに結局何が起きるかは選べないのかよ!」
となりませんか?
さてどういうことでしょう?
その前に、
「創造している」とは何をでしょう?
「お気に入りの現実」「都合のいい現実」でしょうか?
実際はそれを望めば望むほど、それと正反対の現実を見ることが多いのではないでしょうか?
実は、本当の意味で創造など起きていないのだとしたらどうします?
私たちの源にあるエネルギー、阿頼耶識でもハイアーセルフでもソースエネルギーでも呼び方は何でもいいのですが、
(私は特にこだわりがないので)
それは最初からすべてがそこに在る、その充満したナニカ、新たに加えるものも減るものもないナニカが、私たちひとりひとりの見る世界に循環している。
そう、最初から在るものが循環しているだけ、その象徴を私たちは現実世界で見るのだとしたら?
それが私たちの世界に現れるとき、私たちの言葉に翻訳され、名前を与えられ、意味付けされ、今現在の私たちに相応しい状況として映し出されるのだとしたら、よく言われる「結果を決めるだけ」「選ぶだけ」とはどういうことなのでしょうか?
それらは「創造」と何の関係があるのでしょうか?
そもそも「創造」という言葉自体が、私たちの現実に欠けたものがあるというニュアンスを含んでいるのだとしたら?
いや、現実に欠けたものがあるのではなく、本当は私たちの視野でとらえきれていないだけなのだとしたら?
現実世界においては「そう見ればそう見える」が鉄則であり、あなたが後ろを見れば後ろの風景が、上を見上げれば空や天井が見える、これが瞬時に行われ、そのとき何が見えるかは私たちがそれぞれ持っている信念次第。
つまり、強いて私たちひとりひとりの現実世界においての「創造」とは、「見る」あるいは「認識する」こと同じということなのではないでしょうか?
何かを見て、言葉で認識することでそれは世界に形を成す。
それはただそれだけです。
私たちの世界に循環して現れた象徴は、形を成すことで役割を終えて消える、ただそれだけのもの。
「創造」なんてそれだけのことです。
すべてが最初から在って、何も増えも減りもしない世界で「創造」という概念自体が幻なのです。
海の表面に浮かんだ波と同じ。
現れては消えて行くのです。
波は創造されるのではなく、海全体のエネルギーのうねりや、海面をなぞる風によっていっときその姿を見せるだけなのですから。
では、「決める」「選ぶ」とは?
創造とは何の関係もありません。
単なる取捨選択です。
前述のとおり、本当の意味で創造など起きていないのですから。
ただ起きた何かを、自分の意識体験の中に取り込むのかどうか、ただそれだけです。
私たちが何かに意識を向けると、それに関連したものが現実世界に次々と展開される。
意識を向ければ向けるほど、より多く、より早く、より頻繁に…それが私たちにとって都合がいいかどうか、心地よいかどうかはまったく無関係です。
ではそれを拒絶すればいいかというと、それも意識を向け続けていることには変わりないので、やはりより多く…のループとなるでしょう。
そこから抜け出すカギは、「そこから抜け出そうとしない」です。
抜け出そうとするなら抜け出さなければならなくなり、「どうにかしなければならない」とするならどうにかしなければならなくなります。
つまり気にしない。真に受けない。
「でも放っておいたらどんどん問題が大きくなって取り返しのつかないことになるのでは?」
表面的にはそう見えるかもしれません。
そしてあなたは実際になんらかの措置を取らざるを得なくなるかもしれません。
そのときはその行為が起きるまま淡々と流れに乗ることです。
目の前に起きた行為に没頭し、ただ起きたそれを終わらせてしまうことです。
そして、望ましいことに意識を向ける。
今はここではないどこかにあるそれを引き寄せようとするのではなく、意識を向けた以上その象徴はこの世界に既に現れていると見ることです。
何を見ても、喜びというゴールから逆算されている、すべてがその象徴であると意味付けることです。
たとえあなたが「問題への対処」という形で行為していたとしても、それもその象徴として起きたものだと意味付けるとき、問題が問題でなかったことを知るでしょう。
そして、そのゴールに関連した象徴として意識を向けることで、次々とそれに関連したことを展開させる。
それが、言葉による制限、認識による制限の下にある私たちの世界における「創造」となるのです。
ココロノタビビト(@cokoronotabibit) | Twitter