「在る」からこそ見えない?
昨日は久々に記事を書いたわけですが、いかがだったでしょうか?
よろしければ感想などお聞かせいただけると嬉しいです。
さて、昨日の記事 では
「すべてがたった今突然現れたものであって、それまでの経緯という記憶も同時に採用したものにすぎない」
という感じのことを書きました。
つまり、あなたが紆余曲折、苦労して手に入れたものであろうが、何気なくあっさり手に入れたものであろうが、気がついたら手に持って飲んでいたコーヒーと同じく、今この瞬間に突然現れ、それに対して
「飲みたいと思っていた」
「お湯を沸かした」
「ドリップして淹れた」
「テーブルまで持ってきた」
「今椅子に座って飲んでる」
という別の世界の断片を記憶というていでつなぎ合わせてまあまあ矛盾しない、エゴが納得するストーリーとして知覚しているということでした。
「ああ、これこそが『望んだ瞬間にそれは在る』いや、『在るからこそ望みがわいた』というものか!」
とあなたは歓喜の涙を流す…人も中にはいるかもしれませんね^^;
いたら全力で「おめでとうございます!」と祝福させていただきます(皮肉じゃなくて本心から)。
おそらく、割と多くの人のフォーカスは「在る」よりむしろ「ない」のほうに強く向いていて、
「今コーヒーはない」
「他のが飲みたいのにコーヒーしかない」
「この状況を望んでない」
「この状況になったのは本当に今この瞬間なのか?ちゃんと経緯があるとしか思えない」
まさに、『望んだ瞬間にそれはない』『ないからこそ望みがわいた』
という状況を実感されているのではないかと思います。
別にそれが悪いことでもなんでもないですし、そう思うならそのとおりなんでしょうねと言ってしまえばそれまでなのですが(突き放しているのではありません)、これをやめたいと思っている人もまた少なくないと思いますので、少しは参考になるかも知れないことを書いてみますね。
ではなぜ、「すべてが既に在る」と少なくない人が確信を持って語っているのを見聞きしているに、多くの人は上記のように「ない」という知覚を体験するのか、よく言われる「許可していないから」「受け取れていないから」「自分にその資格がないと思っているから」とはつまりどういうことなのか、やっぱり既にあるなんてウソだから目の前に現れないんじゃないのか?
まあそう思ってしまうのも無理もありませんよね。
でも、もしこれが「在るからこそ見えなくしている」もっと言えばエゴ(=無意識)は実はそれが在ることを知っているからこそ抵抗しているのだとしたら?
はなっから「ない」のなら抵抗もへったくれもないわけで、オートモードで人生のストーリーを脳内に垂れ流すだけでいいのならエゴがざわざわする必要もまったくないわけです。
でもエゴは実は私たちが知覚する範囲外の世界にも薄々気づいていて、いずれはそれを受け入れざるをえないことも分かっている、分かっているからこそこう考えるわけです。
「それは確かに在る。それこそが動かせない真実だろう。しかし、それをこいつ(あなた)が受け取るためにはそれなりの代償が必要だ。でなければ納得いかない。その代償を払うためには、いったんそれが『ない』というていにして課題をクリアしてもらわなければ。その課題の難しさはこいつがどれだけその望みを重要だと考えているかに比例させるべきだ」
こうして、あなたの目の前には「ない」という幻想と、それを見るために「クリアすべき課題」「その経緯」「難易度」等々が一瞬にして記憶の中のストーリーとして提供されるのです。
もちろんその課題に楽しんで取り組むのもアリだと思いますが、楽しくないとき、絶望的な気持ちになるときもあるかも知れません。
そんなときは、「在るからこそこの状況を見ている」のだ、と一歩引いた目で眺めてみてください。
あなたに悲観的な見通しばかりをエゴがささやくのはなぜか?
「在るからこそ、あなたに代償を支払わせたい」
なぜなら、分離そのものであるエゴにとっては、すべてが最初から「在る」という真実は自身の生殺与奪に関わるのでできれば認めたくない、でも「在る」ことは否定しようがないのは分かっているので極力先延ばしにしたい、そうやってあなたの目をくらまし、違う方向に向けようと必死になるのです。
違う方向とは何か、あなたを「在る」ではなく、「ない」またはそれを覆すために「クリアすべき課題」にフォーカスさせることです。
時間の概念はないはずなのに「先延ばし」ってどういうこと?
という疑問もわくと思いますが、本当はエゴも無意識にすべてが同時に在ることに気づいています。
でも今あなたが知覚しているその時間軸で、あなたが「在る」の認識を先延ばしにすればするほど、仮初めの時間軸の中でエゴははかない延命を図ることができるのです。
つまりエゴに実体などないということです。
元々実体がないのだから「時間軸などない」「すべては今ここに在る」とあなたが気づいてしまったところでエゴが跡形もなくかき消えたりはしないのですが、あなたの態度が変化することで自分の立場が脅かされるのではないか、用済みとなって消されるのではないかとビクビクしているのがエゴが必死になる理由なのです。
話があちこち飛んでしまいましたが(笑)、
あなたが「在る」を認識するためにどんな代償も支払う必要はない、すべては先延ばしにするための方便だったと気づいたら幻想の中の綻びが現れてくるでしょう。
それはあなたが「本願」だと思っているものとは違う形かも知れません。
「高級ワインが飲みたいのにぶどうジュースを飲んでる」
「好きな人とデートしたいのに友達と出かけることになった」
「神戸牛のステーキが食べたいのにすき屋で牛丼を食べている」
それは今この瞬間に前後の状況関係なく現れた「在る」世界の現象です。
「在る」からこそそれを見ている。
たった今この瞬間に現れたそれをどんなストーリーの後始末にしてしまう必要もない。
望みの重要度、大小で評価の天秤にかける必要もない、すべては同じ喜びだからです。
その設定があなたの幻想のほころびをどんどん拡大していき、元々あった「在る」が姿を現すでしょう。
もちろん、そのときは「今この瞬間にこれは現れたんだ。ここにいたるまでのどんなストーリーの記憶も実体はないんだ」と前後のつながりから自由でいてください。
「たった今、何の前触れもなくこうなって(見えて)いる」
前後のつながりなくただこう認識するだけで、それを継続する必要はなくなるのです。
次の瞬間(便宜上の表現です)には、まったく別の在り様を見て、まったく別の記憶を挿入したストーリーを生きている、ただ、どんな世界を見たとしても、
「在るからこそこうなっている」「前後とは何の関連もなくここにいる」
それが真実なのです。
あなたが見ているそれにどんな属性を与えるかで、それら(=世界)はそのとおりに振舞うしかなくなるのです。
Twitterもよろしくお願いします。