引き寄せない、叶えない、すべては既に在る

奇跡も魔法も、特別なことなんて何も必要ありません。あなたは既にすべてとともに在るのだから

そのコーヒーはどこから現れたのか?

かつてアメーバブログにちょっとだけ記事を書いていたのですが、しばらくほっといているうちにいろいろ使い方がよく分からなくなったのでこちらに移動してきました。

※こちらもあまりよく分かってるとは言えませんが(笑)

 

以前書いてたブログ

奇跡の日常を生きる!

 

さて、ここ2~3年ほどは主にTwitterで短くつぶやいていただけだったのですが、先週急にまとまった言葉が降りてきた気がしたのでさあ久々にブログ書くぞー!と意気込んだのも束の間、すぐに何を書こうと思ったか忘れてしまいました(笑)

 

だからこれからしばらくは少しずつ思い出したことを書いていこうと思います。

お役に立つかどうかはこれを読んでいただいたあなたのタイミング次第ということで^^

 

 

そろそろ本題に入りますね。

 

このブログのタイトルにもあるとおり、私は「引き寄せる」「叶える」「創造する」といった言葉を表現としてはありだなと認めつつ、一番個人的にしっくりきてるのは「在る」なんですよね。

 

じゃあ「在る」ってどこにあるんだよ?

いつそれ目の前に現れるんだよ?

という話になると思うのですが(もちろん私もそう思っていましたよ)、多くの書籍やブログでも

「いま、ここに」という説明がされているようです。

 

「はあ?どこにもないよ!」とリアクションすれば、「在るけど見ていないだけです」と返ってきたりね。

まあそれ以外になかなかうまく言いようがないのも分かります。

しょせん感覚のものですしね。

でも感覚ってたいがい後から来るものなので、どんな感じでものごとをとらえていったらそれに近いかなあとぼんやりと考えていたら、先日ハッと閃いたことがあったんですよね。

(ハッと閃いてパッと消えちゃったのですが笑)

 

そのとき、私は家でコーヒーを飲んでいたのですが、ふと「このコーヒーはどこから来た?」と思ったんですよね。

「いやいや、今家で飲んでいたって自分で言ったんだから自分か家族の誰かが淹れてくれたんでしょうが?」

と突っ込みたくなると思うのですが(記憶では確かに自分で淹れました)、もう少しこらえて読んでみてくださいね。

 

私の中で「既に在る」と「時間は存在しない」は特に密接に関わっている事柄なのですが、よくTwitterでもつぶやいているとおり、「過去」「未来」は「今ここ」に私たちがいる限りどこにも存在していない、何の関連もないと見ているんですよね。

 

だから「既に在るってどこだよ?」→「ここです」

「いつ現れるんだよ」→「今です」

 

としかならないのですが、それがコーヒーとどう関係するのかって言うと、私はそのときコーヒーを飲みながら、

 

「今飲んでるこのコーヒーは、今この瞬間に現れたんだ」と閃いたわけなのです。

 

あ、PCやスマホ画面の前で総ツッコミしてる声が聞こえてきそうですね(笑)

 

確かに私には自分でコーヒーを淹れたという記憶があり、それを自分で(ついでに妻の分も)カップに注いでミルクだけ加えてテーブルまで持ってきたっていうことも憶えていました。

 

でも、それって本当にそうなのでしょうかね?

本当はコーヒーが現れた瞬間に私はそれを飲みたいと望み、瞬時にお湯を沸かしたりドリップしたり、妻に「コーヒー淹れるけど飲む?」と声をかけたりという記憶も付け加えて一連の私の日常というストーリーの中に組み込んじゃったのだとしたら?

 

エゴって元々そういう便利なオートモードで日常生活のストーリーを見る手助けをしてくれているものですしね。

一瞬で何かが現れることをいちいちそのまんま知覚していたら逆に私たちは大混乱するでしょうし返って不便極まりないかも知れません。

だから人生の大半の局面においてエゴのオートモードは役に立ってくれているんですよね。

 

だけど、オートモードにどっぷり浸かっている限りは私たちはストーリーから外れることはできない、つまりエゴが納得するように、今までの常識、経験と整合性の取れない飛躍はあり得ないという制限の中で知覚を持ち続けることになるわけです。

 

でももし、今飲んでいるコーヒーが「いつ、どこから来たのか?」ということに疑いを持ち始めたとしたら?

 「過去」「未来」がなく、「今この瞬間」しかないのであれば、今飲んでいるコーヒーは今何の前触れもなくここに現れた、現れたと認識した瞬間に私はそれを飲んでいる、そして(記憶の中で)時間をさかのぼってそれを飲みたいと望んだ、これこそ「望んだ瞬間にそれは在る」ということじゃないか!

…という瞬間を、常に私たちは体験していることに気づき続けていたら、私たちの日常はどう変わっていくでしょうか?

 

コーヒーに限らないですよー

あなたが行きたかった場所、例えばディズニーランドにいるとします。

あるいはどこかのお洒落なレストランで好きな人と食事をしているとします。

あるいは欲しかったものを買うか貰うかして手に入れたとします。

 

そのとき、「ああ、この状況は今瞬時に現れたんだ、何の前触れもなく突然こうなったんだ」という視点で眺めてみる。

チケットを手配したり、そのためにお金をためたり、相手と日程の調整をしたりといった記憶はもちろんあるでしょうけど、それはエゴが抵抗のない範囲でストーリーと整合性のとれる記憶をオートモードでつなげただけと気づいている、本当はそれいらないのに後付けで(といっても超高速で)大慌てで極力矛盾のない記憶を採用している…

 

「もう、エゴちゃんってば無駄に高性能なんだから(笑)」

 

とそのひとり相撲を笑って許してあげる余裕が出てきたら、完全になくならないにしてもその記憶のプロセスはかなり簡略化される余地が増えてくることでしょう。

 

とにかく、「今」知覚している状況を、過去の記憶とは関係なく、突然、何の前触れもなく現れて、同時並列にある別の世界の事象を「過去の記憶」として採用することでストーリーとして完結させていることに気づく、それだけでガラガラとドミノ倒しが起きていくかも知れませんね。

 

 

まだ思い出したことの半分も書いてないですが、ちょっと長くなったのでいったん終わります。

続きは近いうちに。

 

予告しときましょうか。

続きは

「コーヒー飲めてないよ」

「コーヒーじゃなくて高級ワインがいいのに」

「ディズニー行きたいけど行けてないよ」

「好きな人に会えてないよ」

「それでも今この瞬間何の前触れもなくこの状況になったと思えってか?」

「自分でこの状況を望んだってか?」

について書いてみますね。

 

お楽しみに。

 

 

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