「満たされる」とき
久しぶりの更新です。
今回は「満たされる」ということについて書いてみたいと思います。
皆さんは「満たされる」ときというのはどんなときだと思うでしょうか?
「満たされる」「充足」「満ち足りる」…そういった言葉のイメージから、なんとなく何かを「受け取った」ときに満たされた気分になることを連想されるかも知れませんね。
私たちの知覚としては確かにその通りの順番で感じられることが多いので、ある意味間違ってはいないでしょう。
ただ、私たちが観ているそれぞれの世界は、あくまで私たちの内面の投影であるという観点で観ると、「受け取る」をより意識的にしていくとそれは「発する」に他ならないことが分かると思います。
私たちが内面から「発する」ものを同時に世界が映し出し、それを「受け取る」ていで体験する。
つまりは、私たちは「発する」ときにこそ満たされるということではないでしょうか?
あなたが優しさを「発する」なら世界は優しさを、豊かさを「発する」なら世界は豊かさをそれぞれ映し出す風景となる。
あなたはそれを体験して満たされる。
それらの風景を因果のストーリーで意味付けしようとすればそれに縛られてしまうでしょう。
それなりに納得のいく経緯、幸運、努力の結果として満たされる資格を手に入れなければならない、つまり成果に応じて一方的に与えられるものを「受け取った」ときにはじめて満たされるという従属関係が成立することになります。
しかしあなただけが観ている世界で、いったい誰がそれをあなたに与えるのでしょう?
あなたが崇める高次元の存在も、同じ地球に生きている他人も、あなたの世界の風景にすぎないのであれば、あなたに何かを与える、受け取らせることができる他者など存在しないのです。
ですから、あなたが他者から「受け取る」という幻想を見破るとき、そこにはあなたが「発する」だけが残るのです。