「既に在る」っていつどこに?
「既に在る」っていつどこにあるのでしょう?
基本的なコンセプトとして、「時間は存在しない」「すべては同時に在る」という前提で見ると、すべてが「今この瞬間に、ここに在る」しかあり得なくなります。
だって過去も未来も記憶の中にしかないのですから。
※「未来」も思考の中にしかなく、その思考は記憶の中にしかないので、「今この瞬間以外」というくくりでは「過去」も「未来」も同じようなものです。
つまりは幻想でしかありません。
「時間が存在しない」ということは、「すべてが同時」「すべてが始まりであり終わり」のはずです。
では、「今この瞬間、ここに在る」はずの世界をなぜ私たちはしばしば見ることができないでいるのでしょう?
それは、私たちが五感で知覚する世界もまた、「今この瞬間以外」の幻想だからなのでしょう。
本当は私たちはすべてが並べられてそろっている「今この瞬間」に在りながら、知覚を「今この瞬間以外」に置いてきてしまっているのです。
置いてきているというのも便宜上の表現にすぎなくて、そこに居るのに自分が居るのは別の場所だと思い込んで夢を見ている状態と言ったほうが近いかも知れません。
私たちのエゴは、「ただそこに在る」ものをシンプルに受け入れることができず、思考によって意味づけをしようと常に試みています。
意味づけとは、「これは何だ?」「どういう理由で現れたのだ?」「私がこれを受け取る根拠は何だ?」こういった問いに対する答えのことです。
その解答を「過去の記憶」の中から探そうとするので、「これこれこういった理由で自分はこれをまだ受け入れるわけにはいかない」「こういう過去の経緯があるので、とうていこれが現れることは在り得ない」「まずは問題を解決しなければ」等々、延々とそれを知覚することを先延ばしにしているのです。
でも、過去が幻想であるなら、その記憶の中にある経緯も後付けで瞬時に付け加えた幻想でしょう。
もし「長い間叶わなかったのだからこんなに簡単に叶うはずがない」という思い込みがあったとしても、その「長い間叶わなかった」すらたった今一瞬で見ている幻想にすぎないでしょう。
だから延々と先延ばしにしているという認識も実は幻想なのです。
本当は私たちはすべてが「既に在る」場所に今もいるのに、世界に対する認識を支える過去の幻想を一瞬で選択している。
私たちが五感で知覚してる「今」ですら過去の記憶の中から選んでいる。
私たちにできることは、今知覚し体感しているこの世界が、どんな「今この瞬間」につながるのかという「在りかた」の選択ということになります。
今見えている世界のバックグラウンドで、どんな「在りかた」が覆っているのか?
私たちが見ている世界という記憶の幻想が、どんな「在りかた」を前提にしているのか?
それを選ぶのです。
「選べない!」
なぜですか?
「だって私にはそんな価値も資格もない」
なぜそう思ったのですか?
「だって今までずっとそうだったから…」
その「今までずっと持っていた」記憶も今あなたが自分自身に対する認識を持つと同時に浮かんだものだとしたら、それでもその記憶を拠り所にしますか?
「今までずっと」「今もこう」
すべては一瞬で認識している幻想です。
逆に幻想があるからこそ私たちは過去のある時点からある時点という時間の流れ、物事の変化という記憶を認識することができるわけですが、それに縛られる必要はないのです。
いやむしろ、私たちこそが記憶を縛っていることに気づくべきなのかも知れません。
私たちはただ、「在りかた」にOKを出し、その前提で今記憶の中の世界を認識するだけです。
理由も根拠も捨てて、ただ「既に在る在りかた」をOKとする。
それだけです。
あとは見えている世界が一瞬で前提のほうに辻褄を合わせてくるでしょう。
どんな風に見えていようと、あなたが世界に対応するのではなく、世界があなたに対応しているのです。
あなたが何か為すことがあるのなら、自然にそれをやる流れとなるようなお膳立てを世界がするでしょう。
Twitterはこちらです
すべては今初めて目にしている
前々回 と 前回 の2回にわたって、認識している世界が「今この瞬間」現れたものであって、それが目の前に現れるまでの経緯に関する記憶は本当は実体がないということに触れました。
過去が存在しないということは、今この瞬間目にしている世界のすべては、たった今初めて目にしているということになります。
「そんなことないよ。今日会社に出勤したときも覚えているとおりの経路で進んだし、会社の人たちの顔や帰ってきたときに出迎えてくれた家族の顔だってちゃんと覚えているよ」
ええ、そうでしょうね^^
でも、私たちが今この瞬間しかない世界を体験しているのなら、その「覚えている経路」「覚えている人たちの顔」ってなんなのでしょう?
実はこういうことではないでしょうか?
あなたが家を出て会社に向けて足を踏み出す。
本当はどこにどうやって行くかも分かっていない、でもとにかく「行く」という意図の下で実際にそうしようとした瞬間、あなたは次にどちらの方向に進むのか、どこまで歩いてバスに乗るのか、どこで降りてそこからどう歩くのかを瞬時に知る、あまりにもタイミングよくそれが起きているので、それを以前から知っていたかのように錯覚したまま、「覚えているとおりの経路」で目的地に到着する。
そして会社の同僚、上司、部下、取引先の人たちと顔を合わせる。
その人たちはその瞬間に初めて会う人たちで、どこの誰なのかも本当は知らない、でも瞬時に「この人は上司の〇〇部長、この人は同期入社の△△君」という情報(記憶)を得る、家に帰ればそのとき初めて会った家族についてのあらゆる情報を瞬時に思い出す、まるで知らなかったことなどなかったかのように。
こうして私たちは瞬間瞬間まっさらな世界ですべてを初めて見ているにも関わらず、日常のほとんどを「憶えている」「見たことがある」「知っている」というていで体験することになります。
もちろんそのほうが便利なことが多いでしょう。
毎瞬毎瞬赤ちゃんのようにすべてを初めて見るという知覚をリセットしていたら、新鮮かもしれませんが不便で仕方ないでしょうしね。
でももしこの「憶えている」「知っている」という体験を意識的に緩めることができたら、私たちはエゴの強制する人生のストーリーから一瞬にして自由になるでしょう。
たとえば、会社で上司の顔を見たとき、
「この〇〇部長はすごく嫌味なやつで昨日も些細なことで揚げ足を取られて2時間もネチネチと説教された」という記憶が瞬時に付け加えられたとします。
そのままいやーな気分でその過去の延長線上の関係性を続けることもできますが、
「ん?この人がどうやら上司みたいだな。さて、どんな人だろう?一緒に仕事して楽しい人だといいな」と、今この瞬間初めて見た人であることを意識することもできます。
その結果、やっぱりその日も嫌味を言われたりするかもしれませんが、
「ほらみろ!前からそういう人だったよ!そう簡単にかわりゃしないよ!」と思うか、
「今日はそうだったけど、昨日までの記憶にあるこの人とは別の話だ。そして次に会うときはやっぱりまた違う初めて見る人だ」と思うかでまたその上司に関する体験の分岐は変わってきます。
「ずっとそうだった」→「これからも変わらない」をそのとき断固として選ばないのであれば、瞬時に世界はその属性から分岐します。
また、会社に出勤したり、あるいは家に帰るときも、あなたの知覚では見知った道のりを往復しているだけかも知れませんが、
「さて、私はたった今初めて見る世界の中で移動しているぞ。道を覚えているというのは錯覚で、一瞬ごとに必要な情報が記憶という形で私の中に送り込まれてきているのだ。これってすごいことだよね!」
と新鮮な驚きを感じつつ移動することもできます。
そうすることで、あなたは「過去の記憶に縛られない世界」に分岐して行きます。
いやまあ、本来元々そうなのですが、それを意識することで「記憶の呪縛」から自由になれるのです。
その記憶とは、今この瞬間をどう設定しているかで、無限に分岐した膨大な世界の情報の中から選ばれて採用されたものだと気づいたら、もうその記憶に対するリアクションとして整合性の在るストーリーを維持する必要はなくなってしまうでしょう。
記憶がすっかり私たちの知覚から消え去ってしまうことはなくても、「すべては今初めて目にしている」「すべての属性は今この瞬間に決定している」と気づくことで、世界は瞬時にそれに反応するでしょう。
「在る」からこそ見えない?
昨日は久々に記事を書いたわけですが、いかがだったでしょうか?
よろしければ感想などお聞かせいただけると嬉しいです。
さて、昨日の記事 では
「すべてがたった今突然現れたものであって、それまでの経緯という記憶も同時に採用したものにすぎない」
という感じのことを書きました。
つまり、あなたが紆余曲折、苦労して手に入れたものであろうが、何気なくあっさり手に入れたものであろうが、気がついたら手に持って飲んでいたコーヒーと同じく、今この瞬間に突然現れ、それに対して
「飲みたいと思っていた」
「お湯を沸かした」
「ドリップして淹れた」
「テーブルまで持ってきた」
「今椅子に座って飲んでる」
という別の世界の断片を記憶というていでつなぎ合わせてまあまあ矛盾しない、エゴが納得するストーリーとして知覚しているということでした。
「ああ、これこそが『望んだ瞬間にそれは在る』いや、『在るからこそ望みがわいた』というものか!」
とあなたは歓喜の涙を流す…人も中にはいるかもしれませんね^^;
いたら全力で「おめでとうございます!」と祝福させていただきます(皮肉じゃなくて本心から)。
おそらく、割と多くの人のフォーカスは「在る」よりむしろ「ない」のほうに強く向いていて、
「今コーヒーはない」
「他のが飲みたいのにコーヒーしかない」
「この状況を望んでない」
「この状況になったのは本当に今この瞬間なのか?ちゃんと経緯があるとしか思えない」
まさに、『望んだ瞬間にそれはない』『ないからこそ望みがわいた』
という状況を実感されているのではないかと思います。
別にそれが悪いことでもなんでもないですし、そう思うならそのとおりなんでしょうねと言ってしまえばそれまでなのですが(突き放しているのではありません)、これをやめたいと思っている人もまた少なくないと思いますので、少しは参考になるかも知れないことを書いてみますね。
ではなぜ、「すべてが既に在る」と少なくない人が確信を持って語っているのを見聞きしているに、多くの人は上記のように「ない」という知覚を体験するのか、よく言われる「許可していないから」「受け取れていないから」「自分にその資格がないと思っているから」とはつまりどういうことなのか、やっぱり既にあるなんてウソだから目の前に現れないんじゃないのか?
まあそう思ってしまうのも無理もありませんよね。
でも、もしこれが「在るからこそ見えなくしている」もっと言えばエゴ(=無意識)は実はそれが在ることを知っているからこそ抵抗しているのだとしたら?
はなっから「ない」のなら抵抗もへったくれもないわけで、オートモードで人生のストーリーを脳内に垂れ流すだけでいいのならエゴがざわざわする必要もまったくないわけです。
でもエゴは実は私たちが知覚する範囲外の世界にも薄々気づいていて、いずれはそれを受け入れざるをえないことも分かっている、分かっているからこそこう考えるわけです。
「それは確かに在る。それこそが動かせない真実だろう。しかし、それをこいつ(あなた)が受け取るためにはそれなりの代償が必要だ。でなければ納得いかない。その代償を払うためには、いったんそれが『ない』というていにして課題をクリアしてもらわなければ。その課題の難しさはこいつがどれだけその望みを重要だと考えているかに比例させるべきだ」
こうして、あなたの目の前には「ない」という幻想と、それを見るために「クリアすべき課題」「その経緯」「難易度」等々が一瞬にして記憶の中のストーリーとして提供されるのです。
もちろんその課題に楽しんで取り組むのもアリだと思いますが、楽しくないとき、絶望的な気持ちになるときもあるかも知れません。
そんなときは、「在るからこそこの状況を見ている」のだ、と一歩引いた目で眺めてみてください。
あなたに悲観的な見通しばかりをエゴがささやくのはなぜか?
「在るからこそ、あなたに代償を支払わせたい」
なぜなら、分離そのものであるエゴにとっては、すべてが最初から「在る」という真実は自身の生殺与奪に関わるのでできれば認めたくない、でも「在る」ことは否定しようがないのは分かっているので極力先延ばしにしたい、そうやってあなたの目をくらまし、違う方向に向けようと必死になるのです。
違う方向とは何か、あなたを「在る」ではなく、「ない」またはそれを覆すために「クリアすべき課題」にフォーカスさせることです。
時間の概念はないはずなのに「先延ばし」ってどういうこと?
という疑問もわくと思いますが、本当はエゴも無意識にすべてが同時に在ることに気づいています。
でも今あなたが知覚しているその時間軸で、あなたが「在る」の認識を先延ばしにすればするほど、仮初めの時間軸の中でエゴははかない延命を図ることができるのです。
つまりエゴに実体などないということです。
元々実体がないのだから「時間軸などない」「すべては今ここに在る」とあなたが気づいてしまったところでエゴが跡形もなくかき消えたりはしないのですが、あなたの態度が変化することで自分の立場が脅かされるのではないか、用済みとなって消されるのではないかとビクビクしているのがエゴが必死になる理由なのです。
話があちこち飛んでしまいましたが(笑)、
あなたが「在る」を認識するためにどんな代償も支払う必要はない、すべては先延ばしにするための方便だったと気づいたら幻想の中の綻びが現れてくるでしょう。
それはあなたが「本願」だと思っているものとは違う形かも知れません。
「高級ワインが飲みたいのにぶどうジュースを飲んでる」
「好きな人とデートしたいのに友達と出かけることになった」
「神戸牛のステーキが食べたいのにすき屋で牛丼を食べている」
それは今この瞬間に前後の状況関係なく現れた「在る」世界の現象です。
「在る」からこそそれを見ている。
たった今この瞬間に現れたそれをどんなストーリーの後始末にしてしまう必要もない。
望みの重要度、大小で評価の天秤にかける必要もない、すべては同じ喜びだからです。
その設定があなたの幻想のほころびをどんどん拡大していき、元々あった「在る」が姿を現すでしょう。
もちろん、そのときは「今この瞬間にこれは現れたんだ。ここにいたるまでのどんなストーリーの記憶も実体はないんだ」と前後のつながりから自由でいてください。
「たった今、何の前触れもなくこうなって(見えて)いる」
前後のつながりなくただこう認識するだけで、それを継続する必要はなくなるのです。
次の瞬間(便宜上の表現です)には、まったく別の在り様を見て、まったく別の記憶を挿入したストーリーを生きている、ただ、どんな世界を見たとしても、
「在るからこそこうなっている」「前後とは何の関連もなくここにいる」
それが真実なのです。
あなたが見ているそれにどんな属性を与えるかで、それら(=世界)はそのとおりに振舞うしかなくなるのです。
Twitterもよろしくお願いします。
そのコーヒーはどこから現れたのか?
かつてアメーバブログにちょっとだけ記事を書いていたのですが、しばらくほっといているうちにいろいろ使い方がよく分からなくなったのでこちらに移動してきました。
※こちらもあまりよく分かってるとは言えませんが(笑)
以前書いてたブログ
さて、ここ2~3年ほどは主にTwitterで短くつぶやいていただけだったのですが、先週急にまとまった言葉が降りてきた気がしたのでさあ久々にブログ書くぞー!と意気込んだのも束の間、すぐに何を書こうと思ったか忘れてしまいました(笑)
だからこれからしばらくは少しずつ思い出したことを書いていこうと思います。
お役に立つかどうかはこれを読んでいただいたあなたのタイミング次第ということで^^
そろそろ本題に入りますね。
このブログのタイトルにもあるとおり、私は「引き寄せる」「叶える」「創造する」といった言葉を表現としてはありだなと認めつつ、一番個人的にしっくりきてるのは「在る」なんですよね。
じゃあ「在る」ってどこにあるんだよ?
いつそれ目の前に現れるんだよ?
という話になると思うのですが(もちろん私もそう思っていましたよ)、多くの書籍やブログでも
「いま、ここに」という説明がされているようです。
「はあ?どこにもないよ!」とリアクションすれば、「在るけど見ていないだけです」と返ってきたりね。
まあそれ以外になかなかうまく言いようがないのも分かります。
しょせん感覚のものですしね。
でも感覚ってたいがい後から来るものなので、どんな感じでものごとをとらえていったらそれに近いかなあとぼんやりと考えていたら、先日ハッと閃いたことがあったんですよね。
(ハッと閃いてパッと消えちゃったのですが笑)
そのとき、私は家でコーヒーを飲んでいたのですが、ふと「このコーヒーはどこから来た?」と思ったんですよね。
「いやいや、今家で飲んでいたって自分で言ったんだから自分か家族の誰かが淹れてくれたんでしょうが?」
と突っ込みたくなると思うのですが(記憶では確かに自分で淹れました)、もう少しこらえて読んでみてくださいね。
私の中で「既に在る」と「時間は存在しない」は特に密接に関わっている事柄なのですが、よくTwitterでもつぶやいているとおり、「過去」「未来」は「今ここ」に私たちがいる限りどこにも存在していない、何の関連もないと見ているんですよね。
だから「既に在るってどこだよ?」→「ここです」
「いつ現れるんだよ」→「今です」
としかならないのですが、それがコーヒーとどう関係するのかって言うと、私はそのときコーヒーを飲みながら、
「今飲んでるこのコーヒーは、今この瞬間に現れたんだ」と閃いたわけなのです。
あ、PCやスマホ画面の前で総ツッコミしてる声が聞こえてきそうですね(笑)
確かに私には自分でコーヒーを淹れたという記憶があり、それを自分で(ついでに妻の分も)カップに注いでミルクだけ加えてテーブルまで持ってきたっていうことも憶えていました。
でも、それって本当にそうなのでしょうかね?
本当はコーヒーが現れた瞬間に私はそれを飲みたいと望み、瞬時にお湯を沸かしたりドリップしたり、妻に「コーヒー淹れるけど飲む?」と声をかけたりという記憶も付け加えて一連の私の日常というストーリーの中に組み込んじゃったのだとしたら?
エゴって元々そういう便利なオートモードで日常生活のストーリーを見る手助けをしてくれているものですしね。
一瞬で何かが現れることをいちいちそのまんま知覚していたら逆に私たちは大混乱するでしょうし返って不便極まりないかも知れません。
だから人生の大半の局面においてエゴのオートモードは役に立ってくれているんですよね。
だけど、オートモードにどっぷり浸かっている限りは私たちはストーリーから外れることはできない、つまりエゴが納得するように、今までの常識、経験と整合性の取れない飛躍はあり得ないという制限の中で知覚を持ち続けることになるわけです。
でももし、今飲んでいるコーヒーが「いつ、どこから来たのか?」ということに疑いを持ち始めたとしたら?
「過去」「未来」がなく、「今この瞬間」しかないのであれば、今飲んでいるコーヒーは今何の前触れもなくここに現れた、現れたと認識した瞬間に私はそれを飲んでいる、そして(記憶の中で)時間をさかのぼってそれを飲みたいと望んだ、これこそ「望んだ瞬間にそれは在る」ということじゃないか!
…という瞬間を、常に私たちは体験していることに気づき続けていたら、私たちの日常はどう変わっていくでしょうか?
コーヒーに限らないですよー
あなたが行きたかった場所、例えばディズニーランドにいるとします。
あるいはどこかのお洒落なレストランで好きな人と食事をしているとします。
あるいは欲しかったものを買うか貰うかして手に入れたとします。
そのとき、「ああ、この状況は今瞬時に現れたんだ、何の前触れもなく突然こうなったんだ」という視点で眺めてみる。
チケットを手配したり、そのためにお金をためたり、相手と日程の調整をしたりといった記憶はもちろんあるでしょうけど、それはエゴが抵抗のない範囲でストーリーと整合性のとれる記憶をオートモードでつなげただけと気づいている、本当はそれいらないのに後付けで(といっても超高速で)大慌てで極力矛盾のない記憶を採用している…
「もう、エゴちゃんってば無駄に高性能なんだから(笑)」
とそのひとり相撲を笑って許してあげる余裕が出てきたら、完全になくならないにしてもその記憶のプロセスはかなり簡略化される余地が増えてくることでしょう。
とにかく、「今」知覚している状況を、過去の記憶とは関係なく、突然、何の前触れもなく現れて、同時並列にある別の世界の事象を「過去の記憶」として採用することでストーリーとして完結させていることに気づく、それだけでガラガラとドミノ倒しが起きていくかも知れませんね。
まだ思い出したことの半分も書いてないですが、ちょっと長くなったのでいったん終わります。
続きは近いうちに。
予告しときましょうか。
続きは
「コーヒー飲めてないよ」
「コーヒーじゃなくて高級ワインがいいのに」
「ディズニー行きたいけど行けてないよ」
「好きな人に会えてないよ」
「それでも今この瞬間何の前触れもなくこの状況になったと思えってか?」
「自分でこの状況を望んだってか?」
について書いてみますね。
お楽しみに。
よかったらフォローしてみてください
ココロノタビビト(@cokoronotabibit) | Twitter